職業プログラマの僕の残業が減らないたった1つの理由
0. はじめに
お久しぶりです、しゅうです。今年も気ままに更新します(といってる間に2月に・・・)。前回のエントリ人工知能ポエムとシンギュラリティについてのエッセイで、ライブ告知をしなかったら「ライブ告知なかった」というありがたいコメントを世界のI先生に頂いたので、今日はライブ告知から入ります。
僕とカツくんとで細々やってる「しゅうかつ」という安直な名前のフォークデュオで、名古屋のライブカフェで歌います。
- 日時: 2/12 18:00 open 18:30 start(我々は19:00〜)
- 場所: 名古屋今池 パラダイスカフェ21
- 席料: 500円
2人で音源作りもしました(が誰も聞いてくれないので一応晒しておく)。
カツくんはギターと歌とフィドル(バイオリン)、そしてコーラスを担当します。相変わらず彼はとても上手です。
ということで、今日は僕の残業が減らない愚痴を書きます。ただし、僕の残業時間は、比喩的じゃない意味で致命的じゃない*1し、法的にも全く問題ない範囲であることを先に断っておきます。
1. 僕は今日も早く帰れない理由
1.1 知的労働なブルーカラー
僕はインターネットの会社でプログラムを書くことで給料をもらっていて、みんな大好きドラッカー氏が言うところの知的労働者(Knowledge worker)だ。一方でプログラマは
仕事のスケールやコストが土木などと同様の人月計算による日数と必要人数の掛け算という単純な数式によって算出される (ブルーカラー - Wikipedia)
という意味で完全なるブルーカラーだが、同時に『人月の神話』で有名なフレデリック・ブルックスが
この本は「ソフトウェア工学のバイブル」と呼ばれている。なぜなら、誰もがこの本を読んでいるが、誰もこの本で述べていることを実践しないからである。
と言っている程度にはこの分野の人月計算(簡単に言うと見積もり)は機能していない*2。だから、「予定通りに仕事が進まないから残業する」と言ってしまえばそうなんだけど、あまりにも元も子もないからもう少し掘り下げて考えてみる。
1.2 知的労働者の残業が減らない理由
よく考えたら僕の知り合いにはエンジニア以外の会社勤めも結構いて、その人達はソフトウェア開発をしてるわけでもないし、人月計算も(多分)されていないホワイトカラーだ。でも、知的労働者である点と、「結構遅くまで残って仕事をしている日もある」という点は共通だ。となると「人月計算がうまくいかない」というのは、(ここでは比喩的な意味で)致命的な問題ではない気がしてくる。ここでは、もう少し話を広げて"知的労働者"が残業してしまう理由について考えてみたい。
1.1.1 知的労働とその評価について
僕の見ている限り、職種にかかわらず以下の3点は共通している。
- 作業開始・終了のオーバーヘッドを考えると「時間ぴったりで帰る」ことは現実的でない
- 業務の引き継ぎや作業分担は、タスクの難易度によらず相当のコストがかかる
- 目標設定・タスクの要件定義時にアウトプットの質を定義されることは稀である が、アウトプットの質は社内外問わず常に評価の対象になる
短期的に見れば、「今日もうちょっとやってから帰ろう」は非常に理にかなった判断だ。
1.1.2 知的労働における残業の理由
冷静に考えたら、残業は2パターンしか思い当たらない。
- 進捗が思わしくない場合、残業してスタックしたタスクを消化する
- 進捗に余裕がある場合、残業してアウトプットの質の向上を測る
なるほど、たしかに進捗具合に関わらず残業する(評価の対象になるという意味で)真っ当な理由が存在する。
2. 今日も残業する僕のジレンマ
せっかくだから、会社とか国とか"組織的"に知的労働者の残業時間を減らそうとするとどうなるかについても妄想してみよう*3。
1.2.2で述べたように、知的労働において「アウトプットの質の向上」を始めると無限に残業できる状態に陥ってしまうので、とりあえずこれを避ける必要がある。そうすると「タスクに求める質を事前に要件化し、求められる質に対する充足具合と完了速度でアウトプットを評価する」みたいな、偉い人はみんな大好き"生産性で評価"メソッドが適用されることになるはずだが、これはつまり「組織全体のアウトプットの質を下げる代償として残業を減らすこと」を意味する*4。アウトプットの質の低下はそのまま顧客満足度を下げることに等しいので、当然ながら組織的に相当のリスクを負うことになる・・・というか少なくとも僕の働くインターネットの業界だと(比喩的でない意味で)致命的だ。残業はしたくないけど、会社が潰れる(というか給料がもらえなくなる)のはもっと困る。
そしてもう1つ、「アウトプットの質の向上」の作業というのは、辛く悲しい会社勤めの知的労働者の数少ない楽しみというか、個々の裁量とか仕事への拘りが宿る唯一の部分だといってよいと思う(少なくとも僕にとってはそうだ)。これを組織的に許さなくなってしまうと、これまた偉い人がみんな大好き"イノベーション"が起こることを阻害する要因になる気がしてならないし、とりあえず今以上に労働がつまらないものになるのは間違いない。
あ、理由が2つに…まぁ、でも、とりあえず僕はいつだって早く帰りたい。
3. さいごに
なんか思ってた以上に組織的に残業減らす施策は大変そうで、でもそんなことは関係なく僕は自分だけは毎日早く帰りたい。だから、今日も、天気が良すぎて気が滅入る。
とりあえず、名古屋近郊にいる人、2/12の夜は今池で飲みましょう*5。今日は当然ながらこの曲で。初期 the Beatlesのアイドル感はすごい。
注釈等
*1:よくわからないけど、勤務時間だけが(ここでも比喩的じゃない意味で)仕事を理由に死にたくなるだとは思わない。残業してなくても死にたくなることも結構ある気がする。少なくとも僕はそうだ。それにしたってこのtogetterは、見るたびに絶望的な気分になる。
*2:こう言うと怒られそうだけど、この本分厚い上に読みにくくて僕自身はパラパラ流し読みした程度で挫折した。流石バイブル。
*3:個人的には「繁忙期は100時間、月平均60時間を上限」と言うのは、上限としては現実的でよいラインなんじゃないかと思う。日常的に異常が発生するシステムのアラートは、最終的に誰もキャッチしなくなる。
*4:例えば、こち亀が最終的に「毎週安定してまあまあのクオリティ」な漫画に落ち着いたのは、秋本治さんが定時稼働の有限会社"アトリエびーだま"を作ったためだと僕は信じて疑わない
*5:しつこくもう一回
- 日時: 2/12 18:00 open 18:30 start(我々は19:30〜)
- 場所: 名古屋今池 パラダイスカフェ21
- 席料: 500円
人工知能ポエムとシンギュラリティについてのエッセイ
はじめに:人工知能ポエムについて
そもそも僕のブログは"無責任なエッセイ"でしかありえないのだけれど、今回わざわざタイトルに含めたのには、最近巷で流行っている"人工知能ポエム"と明確に区別するためだ。ちなみに、この"人工知能ポエム"というのは、僕が勝手に作った人工知能についての記事のラベル*1で、"技術に明るくない人たちが、その叙情感を楽しむ、人工知能についての良質な散文"を意味し、このあたりが該当する(僕がポエムと評しているのは、文体や表現も含めた記事そのものであって、決してこれらの記事で扱われている方々の発言そのものではない点に注意されたい)。
せっかくなら僕もこの流行に乗ってみようと頑張ったのだが、圧倒的に文章の才能が足りず挫折、残念ながらいつも通りエッセイ風になってしまった*2。どうしても理屈っぽくなってしまって、狙った叙情感が出せなかったのだ(ああ、才能がほしい)。
人工知能とシンギュラリティと生産性
多分この人工知能(AI)とかシンギュラリティ(技術的特異点)とかいうキーワードが、俳句でいう"季語"みたいに叙情感を醸し出す強力な助けになるので、ポエマー界隈で人工知能ポエムが盛り上がっているのだと思うのだけど、ここでは彼らとはちょっと違う観点でこれらについて考えてみたいと思う。
道具の発展と生産性の歴史
人工知能と言っても所詮はヒトの"道具"なので、人と道具の歴史をざっと振り返ってみる。
- 3,000,000年前、道具を使い出す
- 300,000年前、言葉を使い出す
- 3,000年前、文字を使い出す
- 500年前、 科学を使い出す
- 50年前、コンピュータを使い出す
- 今年、囲碁でヒトがコンピュータに負ける
- 30年後、シンギュラリティ(予定)
これら道具の恩恵を受けながら、ヒトという種は他の動物と一線を画し繁栄しているのだが、下*3に示すように「道具の発展の歴史」はそのまま生産性の向上の歴史*4だ。
ビッグデータと機械学習、そして予測制御と生産性の爆増について
上の図を見ると、シンギュラリティの少し手前から異常とも思えるような生産性の爆増が起こる事になっているが、これはそれほど不可解なことではない。観測・予測制御の技術的革新によって生産性が飛躍的に上昇することはこれまでも度々起こっていて(農耕の開始とか産業革命なんかがその好例だ)、今まさにその技術革新真っ只中なのだから。
予測制御とは、簡単に言うと
- 観測(状態の取得)
- 観測に基づく予測
- 予測による制御
によって状態を制御する方法だ。現代制御の世界では常識だけれど、「可観測(見える)」であることと「可制御(動かせる)」であることは全く別の問題で、でも「その系が安定(頑張れば思い通りに動かせる)」であるためには「可制御かつ可観測」であることが必要条件だ*5。
世に言われているシンギュラリティ(技術的特異点)は、「人より人工知能が賢くなること」みたいに説明されて、そこにビッグデータと機械学習が絡まって叙情感のあるポエムが量産されているけれど、この観点でみると結構スッキリ解釈できると思っていて、今この界隈で騒がれている、ドイツ政府の言うところの「第4次生産革命」は、つまりこういうことだ。
3については幸か不幸かまだあまり実感がないけれど、1, 2に関しては信じられないような速度で進捗しているのは、みんななんとなく感じているところだと思う。
ヒトの仕事と人工知能
さて、人工知能を語るときにこのは話題を出さない訳にはいかないだろう。繰り返しになるが、AIの恩恵を受けられる(ネガティブに言えばAIに奪われる)仕事は、今のところ「観測をもとに予測制御できる仕事」に限られる。現在ヒトが手に入れた機械学習ベースの人工知能は、つまるところ観測と統計処理に基づく予測制御機にすぎないからだ*6。オックスフォードのオズボーン准教授ははっきりそう言っていて、だからこそ観測技術の重要性を解いているのだが、どういうわけか前述の記事ではあまりそれが伝わってこない(たぶんポエムの叙情感の犠牲になったのだ)。
上記で紹介した3作品に限らず、ポエマー界隈では「単純な作業はAIの独壇場になり、ヒトはもっとクリエイティブな仕事をすることになる」と語られることが多い気がするが、これはもう根本から間違った議論だ。そもそも、コンピュータと人間の脳は思考のプロセスがまったくもって異なるので、人間にとって"単純な作業"がAIにとって簡単とは限らないし、逆に"クリエイティブな仕事"がAIに難しいとも限らない。将棋のAIが強くなるずっと前から、最終盤で詰みをよむこと(これは人間にとって単純な作業ではない)は人間を凌駕していたし、序盤に誰も見たこともない構想を見せたりしていた(強くなった昨今の将棋AIは、むしろ人間の真似ばかりしている)。その一方で、手書きの数字を人と同レベルに識別できるようになったり、猫を猫とわかるようになったのは、つい最近のことだ。
まとめ:所詮生産性が上がるだけ
これだけ人工知能がもたらす生産性の向上について書き進めてきて、こうまとめてしまうのもアレだとは思うが、個人的には"特定分野の生産性の向上"、つまり部分的に効率が良くなることで解決する問題なんてたかが知れていると思っている。
かつての産業革命が世界平和に全く寄与しなかったように、シンギュラリティも世界平和や領土問題にそれほど貢献するように思えないし、子育てとか介護は"予測制御できない"のが恐らく根本的な問題だ。手紙→電話/メール→LINEと手段の進歩で確実にコミュニケーションコストは減っているのにもかかわらず、恋愛の難しさ自体はほとんど変化していない(と思う、もし簡単になっているんだとしたら、昔の人には尊敬の感情しかない)。つまり、今本当に解決しなきゃいけない問題に関しては、ほとんど無力なんじゃないだろうかとすら思える。
だから何だってことなんだけど、便利になる自体は喜ばしいことなので、あんまり心配しないでとりあえずベイビーレイズ JAPANを聞いたらいいんじゃないかな、暦の上ではディセンバーだし。
注釈等
*1:正確に言うと、中山ところてん (@tokoroten)さんが機械学習ビジネス研究会の参加者募集時に“機械学習ポエム”という単語を使用されており、それに影響されたものだ
*2:ちなみに、この文章はちょうどいいタイミングでお仕事で流用する運びとなり、そちらのほうが先に展開されてしまった。こちらがオリジナルで、あっちがコピペなので色々見逃してほしい
*4:この文章を書くうえで、この"What Happened Before History? Human Origins"という動画には大いに影響を受けた
"手に入れられなかった青春の偽装"としてのアイドル論
はじめに
最近(と言っても数ヶ月前だけど)、敬愛するアイドルヲタの先輩の結婚をお祝いする機会があって、その先輩とかなり前(と言っても1年くらい前だけど)に偶然同じ現場*1に居合わせて、そのまま飲んだ際に語られたアイドル談義を今日は頑張って文字に起こそうと思う。
ということで、ここに書く“アイドル論”や青春の思い出話は確かに僕個人のものだけれど、”偽装”という表現は、その先輩のものだということを先に断っておく。
「青春」について考える
Google先生に、青春の意味を尋ねたところ
若い時代。人生の春にたとえられる時期。希望をもち、理想にあこがれ、異性を求めはじめる時期。
という理想的な回答(もちろん、このエントリ的に、という意味だが)を頂いたので、今日はこれを青春の定義にさせてもらう。
どう冷静に思い返しても、僕には純粋な意味で「希望をもち、理想にあこがれ、異性を求め」た時期が存在しない。あだち充先生のマンガ*2の中に描かれる"青春”に、中学〜高校時代に心酔した僕は、たぶん当時から”青春”に憧れながらも、そんな立場にいられるほどクラスのヒエラルキーの上位にいなかったのだろう。当時の僕にとって、青春は同世代の限られた人たちに与えられた特権でしかなかった。この「限られた」というのが、どれくらい限られているのかと言うのが、とても重要な論点になるのは当然僕も理解しているが、そんなもの調べたり考えたりしたら、間違いなく憂鬱な気分になるので、見逃してほしい。
ちなみに、僕の人生の暗黒期は間違いなく某高校に通った3年間*3だが、その高校は「文武両道」を掲げていて、当時から"文に全振り"していた僕に上昇のチャンスが来るはずもなかった。
手に入れられなかった青春の偽装
とりあえず僕が言いたいのは、いわゆる青春時代に「希望をもち、理想にあこがれ、異性を求め」られるのはスクールカーストの上位層だけで、僕みたいな輩にはそんな権利がなかったということだ。そして、僕(と、最近結婚した先輩)がアイドルに求めているのは、紛れもなく「希望をもち、理想にあこがれ、異性を求め」る青春の疑似体験であり、これを「手に入れられなかった青春の偽装」と名付けたい。
夢に向かってがむしゃらで、涙ながらに希望と理想が語られて、でも才能と比較して圧倒的に情熱過多な空気感。女の子に「かわいい」と伝えて、気持ち悪がられるどころか「ありがとう」と返されるプロトコル。時間的・経済的に、そして精神的にも自分のキャパの中で自分の居場所が確保できる、非常に良くできた青春の偽装*4。これが、不遇な高校時代を過ごすした僕にとってのアイドルだ。
さいごに
考えてみれば、僕の「青春の偽装」は今に始まったわけではない。あだち充先生と吉住渉先生のマンガを自分のバイブルに据えたのも、ゆずと19に憧れてアコギとハーモニカを練習したのも、気づいたらブルーハーツが好きになったのも、思い返せばどれもある種の「青春の偽装」だ。今はただ、その青春が、自分の社会的地位と関係なく、もう手の届かない過去になっただけで。
ということで、今日の〆はこの曲で。BiSH 星の瞬く夜に!
最近はアコギばっかり持ってるけど、やっぱり程よく歪んだエレキギターは正義。青春の音がするね。
あ、過去に書いたアイドルについてのエントリもせっかくなんで晒しておきます。気になったら読んでみてください。