"手に入れられなかった青春の偽装"としてのアイドル論
はじめに
最近(と言っても数ヶ月前だけど)、敬愛するアイドルヲタの先輩の結婚をお祝いする機会があって、その先輩とかなり前(と言っても1年くらい前だけど)に偶然同じ現場*1に居合わせて、そのまま飲んだ際に語られたアイドル談義を今日は頑張って文字に起こそうと思う。
ということで、ここに書く“アイドル論”や青春の思い出話は確かに僕個人のものだけれど、”偽装”という表現は、その先輩のものだということを先に断っておく。
「青春」について考える
Google先生に、青春の意味を尋ねたところ
若い時代。人生の春にたとえられる時期。希望をもち、理想にあこがれ、異性を求めはじめる時期。
という理想的な回答(もちろん、このエントリ的に、という意味だが)を頂いたので、今日はこれを青春の定義にさせてもらう。
どう冷静に思い返しても、僕には純粋な意味で「希望をもち、理想にあこがれ、異性を求め」た時期が存在しない。あだち充先生のマンガ*2の中に描かれる"青春”に、中学〜高校時代に心酔した僕は、たぶん当時から”青春”に憧れながらも、そんな立場にいられるほどクラスのヒエラルキーの上位にいなかったのだろう。当時の僕にとって、青春は同世代の限られた人たちに与えられた特権でしかなかった。この「限られた」というのが、どれくらい限られているのかと言うのが、とても重要な論点になるのは当然僕も理解しているが、そんなもの調べたり考えたりしたら、間違いなく憂鬱な気分になるので、見逃してほしい。
ちなみに、僕の人生の暗黒期は間違いなく某高校に通った3年間*3だが、その高校は「文武両道」を掲げていて、当時から"文に全振り"していた僕に上昇のチャンスが来るはずもなかった。
手に入れられなかった青春の偽装
とりあえず僕が言いたいのは、いわゆる青春時代に「希望をもち、理想にあこがれ、異性を求め」られるのはスクールカーストの上位層だけで、僕みたいな輩にはそんな権利がなかったということだ。そして、僕(と、最近結婚した先輩)がアイドルに求めているのは、紛れもなく「希望をもち、理想にあこがれ、異性を求め」る青春の疑似体験であり、これを「手に入れられなかった青春の偽装」と名付けたい。
夢に向かってがむしゃらで、涙ながらに希望と理想が語られて、でも才能と比較して圧倒的に情熱過多な空気感。女の子に「かわいい」と伝えて、気持ち悪がられるどころか「ありがとう」と返されるプロトコル。時間的・経済的に、そして精神的にも自分のキャパの中で自分の居場所が確保できる、非常に良くできた青春の偽装*4。これが、不遇な高校時代を過ごすした僕にとってのアイドルだ。
さいごに
考えてみれば、僕の「青春の偽装」は今に始まったわけではない。あだち充先生と吉住渉先生のマンガを自分のバイブルに据えたのも、ゆずと19に憧れてアコギとハーモニカを練習したのも、気づいたらブルーハーツが好きになったのも、思い返せばどれもある種の「青春の偽装」だ。今はただ、その青春が、自分の社会的地位と関係なく、もう手の届かない過去になっただけで。
ということで、今日の〆はこの曲で。BiSH 星の瞬く夜に!
最近はアコギばっかり持ってるけど、やっぱり程よく歪んだエレキギターは正義。青春の音がするね。
あ、過去に書いたアイドルについてのエントリもせっかくなんで晒しておきます。気になったら読んでみてください。